距離感の変化(SNS以前と以後)
SNSがはやる前は、個人のブログなんかに好きな作品の感想やレビューをひっそり書いて、何かの偶然で作者の目に届いたら怖いような嬉しいような……というのが作者と読者の間の距離感だった。
ファンレターを送るというのはかなり勇気がいったし、私はしたことがない。そもそも作家本人に伝える言葉など、ひとことたりとも思い浮かびはしなかった。
ブログや掲示板で読者と気さくにやり取りする作家も徐々に増えてはいたが、一般的ではなかった。
その風景が劇的に変わったのはツイッター普及以降ではないだろうか。読者がリプライでもって作者に感想を伝え、作者が返事をするという景色はまったく珍しいものでなくなった。
作家-読者間の葛藤
ただ、私は作家と読者のやり取りの景色が好きではない。「お前が言うか」と突っ込まれそうだが、実はそういう葛藤を抱えつつ日々ツイートしている。
作家側のスタンスは、読者に対してこまめに愛想よく返信する、気の向いた時だけ返信する、「いいね」だけ付ける、一切反応しない、など様々だ。
だがいずれにしても、両者の関係は「売り手」と「買い手」なのである。売り手たる作家側とすれば、自ずと対応に制約が生じる。
その偏ったパワーバランスに乗っかってのやり取りに、私はいくばくかの居心地の悪さを感じながらも、やめられずにいる。
作家にとってみれば「新刊買いました」と言われれば「ありがとう」と言うしかないだろう。「面白かった」と言われれば「ありがとう」と言うしかないだろう。もちろんそれは心からの「ありがとう」であるかもしれず、無駄だ空虚だと決め付けるつもりはない。しかし読者側はせめて自分自身の気もちの乗った言葉をひとことでも絞り出せと言いたくなることはある。
目的化という落とし穴
自分が寄せた言葉に、ひとことでも返事をもらえたら嬉しいのはわかる。私だって嬉しい。しかし、中には毒にも薬にもならないリプライを作家のツイートひとつひとつにつけている人も少なからずいて、返事ほしさに纏わり付くのも大概にしてはどうかと思わなくもない。
返事をもらうことが目的化しているようなコメントを連日送り付けられた側にとってみたら、いちいち言葉を探して返信する作業が楽しいと思うか?
お前はどうなんだ
そういうお前はどうなんだと言われそうなので先に答えておこう。
私は、ひいきの作家にメンションを付けてツイートしている自分が、正直言って気もち悪い。
おいこら。
だってほら、こっちは所詮「買い手」でしょ。五分五分でないシーソーに乗っかりながらも、なるだけ体重を預けないように気を付けながら、おっかなびっくり書くしかないわけですよ。
だっっっさ。
そうして時には作者から喜びの伝わる返事をもらい(これは嬉しい)、時には少し考えて捻り出したらしい返事をもらい(嬉しいことは嬉しい)、時には「いいね」だけをもらい(嬉しくないこともない)、時には黙殺または見過ごされ(それも快感。うそ)、よせバカと心の片隅で思いながらも、やっぱり伝えたいことがあれば書く。
黙殺という言い方はよくないかもしれない。普段こまめに対応してくれている人がたまに無反応だと少しばかり動揺はするけれども、SNSとはそういうことも織り込み済みで使うべきものだろう。
漫画の感想を書く時に私が引用ツイートを多用するのは、ここまで述べたことが主な理由である。つまり私信でなく独立した記事という体裁をとることで少しでも距離を保ち、気もち悪さを緩和しようとしているわけ。意味ないですか。すいません。