久しぶりに『人生ちょっと休んだら/壊れる前に旅に出た』の話題。
初回の取材メモが公開された。(正確には、漫画執筆にあたって記憶を頼りに書いたものだとか。)
私が驚かされたのは、このメモのおもしろさである。といってもおもしろさを称賛したくてこの記事を書いているのではない。私はこの文章のおもしろさの性質に驚かされたのだ。
書いたご本人によれば、これはあくまで「自分用のメモ」。人の目には永久に触れることのない可能性が高かったはずのものだ。
にもかかわらず、この取材メモには読み手を面白がらせようというけれんみがある。隅々まである。これはどうしたことだろう。
私もブログやSNSに文を書き散らすことはある。しかし手元の帳面に日記を書いたりはしない。書かないし書けない。つまり私は読み手を想定せずに文章を書くということがまったくできない。(想定する読者は特定の誰かである必要はないけれども。)
仮に私が誰にも読ませるつもりのない日記を書くとしたら、どこで何を買ったとか、何を食べたといった記録の羅列になるだろうし、感想めいたものは一言たりとも書かれないだろう。同様に、取材メモに類するものを書く場合も、見聞した事柄の箇条書きにしかならないはずである。
要するに人に読ませる目的を持たずして、主観を交えた表情のある文章など書けないのである。
これは「ひとりカラオケ」ができる・できないということとも似ているかもしれない。(そもそもカラオケ自体好きではないが、それは於く。)
AIに聞く
さて私はここでまたずるをした。AIの手を借りてしまった。
質問は2つ。
質問1.私は人がいない場所で発声できません。これはどういう心理でしょうか。そしてそのような人は一定割合いるのでしょうか。
更に質問を重ねて得られた回答の抜粋。
「発声の動機づけが対人場面に依存するタイプ」
「これは「性格」ではなく、脳の行動選択の癖です。」
「少数派だが異常ではない」
「性格ではない」とのことだが、性格のような気がする。ちなみに私は独り言は言う。ただし小声。
質問2.人に読ませる可能性が殆どない日記を書く時に、表情豊かな文学的な文章を書く人もいれば、表情のない箇条書きのようなものしか書かない人もいます。私は後者だと思いますが、このこととの関連を考察して下さい。
以下、回答より抜粋。
「表現行為が「目的依存」になっている
あなたの脳は、発声、文章表現、感情表現といった“アウトプット行為”を、「誰かに伝える」「機能を果たす」場面でのみ自然に起動するという特徴を持っています。」
「内的読者(自分自身)に向けた表現が弱い」
これらの回答は、我の強さと他者異存が同居するという私という人間のたちの悪さを言い当てているように思えて少々恥ずかしいが、菊池真理子という人はこれらにおいて正反対の性質を持っているのではないかと思う。
そしてこの違いは、一人旅を楽しめる人と、楽しめない人の違いとも関連しているように思えてならない。
で、またAIに頼ってしまった。いい加減、最近のこの癖は直した方がいいような気がしているが、回答がなかなかおもしろかったので、冒頭のみ抜粋する。
一人旅を楽しむ人は、
- 内的対話(自分との会話)が豊か
- 自分自身を「読者」「相手」として扱える
- 感情や体験を自分の中で物語化できる
- 自分のために表現行為を起動できる
という特徴があります。つまり、“自分自身が観客になる”能力が高いと言えます。
どうだろうか。

