はなれのなれのはて

ツイッターで書き切れない何か

褒めることの危うさ

私は人非人なので大抵のトラウマ的な体験や生い立ちの話を「物語」として楽しめてしまう。「酔うと化け物になる父がつらい」ですら私には「おもしろかった」のだ。ひどいやつである。だがこれはさすがに無理だ。「おもしろく」は読めない。

苛烈な被害の記憶を背負った人らが、時には絶望し、時にはやり過ごそうとし、時には知見を求め、そして心の整理を試み――とにもかくにも、被害「以後」の自身の生を模索する作業の過酷さに、私の思考は進まない。

連載第一回への反響を振り返ると、まず思い出すのは「作者の勇気」を称えるツイートの数々。とりわけフェミニズムに傾倒するある女性の「意義のある連載」という賛辞に危うさを感じた。(その後その女性は、別の性暴力被害者にまつわる不用意な発言で批判の的となった。)

当時のすべての賛辞がけしからんなどと言うつもりは毛頭ない。ただ作者を褒めることを私自身に殊更躊躇させたのは、全体主義に陥ることへの怖れだったのではないかと思う。「社会にとって有意義なことである。だから彼女の被害告白は尊い」と。これは被害を受けた一人一人の心が何よりも大事であるというリベラリズム(あるいはフェミニズム)から遠いものだ。

 

社会に向けてなされる被害告白ではあっても、一義にはあなたがあなたであるための、あなたの心に平安をもたらすための、あなた自身のこれからの生のための告白であってほしい。

だとするならば、あなたがあなたのためにしたことを私が褒めてしまったら、それはあなたという個人をむしり取ることになりはしないか。そのことをたぶん私は怖れた。

 

この連載漫画においては、取材ものでありながらもしばしば「私」を主語に語られている。そのことに私は安堵感を覚えながら読んでいた。

連載中のインタビューでもそうだったが、エピローグ(書き下ろし)でも#MeToo運動などへの連帯を強いてはいけないという主旨のことが語られている。

 

そしてエピローグ最終コマの言葉。社会に芽生えたひとすじの光明に対する希望を込めての言葉にちがいないが、私はちょっとひねくれた受け止め方をしてしまった。

いささか傲慢な言い方になるのを承知で言うが、社会のあり方というものは、しばしばわかりやすい「正解」が目の前にぶら下がっているにもかかわらず、どういうわけか人々は往々にして不正解を選ぶ。そのたびに社会に感じる絶望を私は想起したが、これはさすがに考えすぎというものだろう。

秘蔵動画のゆくえ

ちょっと印象に残っているツイート。

これはエッセイ『アラフィフひとり おためし山暮らし』第23回にまつわる話。

ピアノの名手でありながら人前ではまったく弾けないという牧さん。なぜか筆者の前では弾けるという。

そこへかのツイートである。

下手な嘘がとてもとても素敵なのである。

「映像をカットして音だけ公開すればいいのでは」などと突っ込んではいけない。

"書く"という体験

ミュージシャンによくみられるケースとして、駆け出しの頃に天から降りて来たかのような傑作をごく短期間のうちに作り上げ、それが結局終生の代表作となってしまうというものがある。

まことに語弊のある言い方にはなるが、菊池真理子にとって『アラフィフひとり おためし山暮らし』は、ある意味においてこのケースと重なるのではないか。

といっても、これが文筆家としての彼女の最高傑作であり今後は大したものが書けないだろうという話ではない。これが後に代表作と呼ばれるかどうかを問題にしているのでもない。

ただ、筆者にとってこれは、記念すべきデビュー作であるということに留まらぬ格別の位置を占め続ける一作になるように私には思えるのだ。

 

私が読みながら感じたことだが、筆者にとってこの連載エッセイは「書いている間ずっと幸せだった作品」なのではないだろうか。内容の楽しさのみならず、そういう書き手の高揚感もが全編に満ち溢れているように私には感じられる。

初回に推敲に苦心した跡が僅かに感じられたものの、それとて「楽しい苦労」だったにちがいなく、高揚感が途切れぬままに一筆書きのように書き上げてしまった回もあったのではないか。(いのうえさきこの秀逸な感想「いろんなページから濃い緑の前で屈託なく笑う筆者が立ちのぼってくる」は、もしかしたら私と似たような感覚から来ている部分もあるのでは――と考えるのは我田引水が過ぎるだろうか。)

誤解のないよう付け加えておくが、私は初回が「不出来」だと思っているわけではない。むしろ情報量のきわめて多いこの導入の軽妙な仕上がりに驚いたくらいである。技術的には初回がもっとも難しかったのではないだろうか。


このエッセイ集は、周辺をほじくれば、まだ書かれていないおもしろい話がいくらでも出て来そうだが、とりわけ私は、この連載エッセイを"書く"という筆者自身の体験がどのようなものであったかに興味をそそられるのである。

またも内容に触れない記事を書いてしまった。「感想文」を書くことから逃げていると言われても、あながち否定はできない。

最後に、この記事は筆者とのやり取りから思い付いて書いたものであるということを付け加えておく。なんとか書けました。

 

媒体と距離感

さて、手元に持っている(一方は電子版だけど)菊池真理子のもう1冊の文字ばかりの著書。

自主制作小冊子(ZINEというらしい)『変性「異」識』。

marikokikuchi.booth.pm

収録された5本のエッセイはどれもおもしろく読めるのだが、読み返しながら、書き手にとっての読み手との距離感というものが気になり出した。

喋りならば、ホールでの講演、ライブハウスでのトークライブ、卓を囲んでのおしゃべり……話し手は、会場やシチュエーションごとに聴衆との距離感に応じ、意識的にであれ無意識にであれ話し方を変えるにちがいない。

それと同質の変化(違い)を、私はこのZINEに感じた。読んでいて、顔を突き合わせて与太話を聞いているのに近い感覚を持ったのである。この距離感は、もう1冊のエッセイ集『アラフィフひとり おためし山暮らし』では決して感じることのなかったものだ。これは計算されたものではないように思う。(無論、文章がいい加減だとかいう話ではない。)

 

文章というものは、媒体等によって自然とその筆致が変わってしまうものなのかもしれない。言い換えれば、この筆致のこの作品は自主制作だから書けたものであり、商業誌に載る前提で書いていたなら、たとえ同じテーマであっても印象の異なる読み物となっていたのではないだろうか。

だとしたら、掲載する媒体によって、その作家の思わぬ持ち味が発見されるということも起こり得るわけだ。

 

なんてことは読者の勝手な想像にすぎなくて、編集者が介在するかしないかの違いでしかないのかもしれないけれど。

ああまたしても内容に触れず妙なことばかり書いてしまった。

下世話なことから

池真理子の、文字ばかりの著書がここに2冊ある。

書きたいことがないわけではないが、どれもおぼろでまとまった文章になってくれない。

結局は書きやすいものから書く。つまり下世話な話題から。

はい、元パートナー氏とのことですね。

「いつも真理子に怒られてる気がする」

(『アラフィフひとり おためし山暮らし』)

はい?

私のイメージでは、常に相手の顔色を窺ってしまっているのは筆者の方。逆に筆者が相手を精神的に圧迫する側に立つという構図がまったく想像できない。なにしろ、超束縛モラハラDV男との地獄の9年間の様子を過去の作品で知っていますから。

かたや、これまでの作品からわかる、この元パートナー氏の気質やら二人の距離感は……。

  • マイペースで気を使わない彼氏(あまり話も聞いていない)
  • 見捨てられ不安を抱える筆者
  • 筆者からはほぼ連絡しない
  • 1ヶ月会わないことがざら
  • デート中はいつも筆者の奢り
  • 金を貸すこともある(返済は?)
  • あまり仕事をしない彼氏

関係が安定しているのかいないのか、どちらが優位なのか、さっぱりわからない。

お付き合いの顛末も子細に知りたいと思うのはさすがに野次馬根性が過ぎるだろうか。

 

 

こぼれ落ちるもの

性産業や性表現のありように対し、私も一通りの興味は持っているけれども、論じる機会は殆どなかったように思う。

そこで菊池真理子のこの記事である。

note.com

往々にして性搾取という問題が付き纏う性産業。

彼女は、性搾取に目をつぶる気は毛頭ないが、その一方では性産業あるいは性表現に携わる友人知人のありようを否定もしない(「否定しない」の中にもグラデーションはあると思うが子細は読み取れず)。

当の記事でやり玉に上がっている「一部のフェミニスト」のような、自身の見識でもってものごとに黒白を付けて邁進する態度に、実は私はわりとシンパシーを覚える。少なくとも「職業に貴賎なし」などと雑なまとめ方でわかったつもりでいるような手合いよりはずっと。

池真理子もまた、ものごとを安易にまとめずに真実に近づこうとするという意味においては、白黒付けたい側の人間なのだと私は勝手に思っている。ただ性産業あるいは性表現に関しては、伴いがちな弊害やリスクを理由に一緒くたに「黒」と判定してしまっては、こぼれ落ちてしまうものがあまりに多い。だから悩む。

つまり「こぼれ落ちてしまうもの」に無関心でいられないが故に右にも左にも行けずに、二村ヒトシの言うところの「宙ぶらりん」状態で考え続けてしまうのが菊池真理子の菊池真理子たるゆえんなのだと思う。

まだまだ語れることはありそうだが、だらだら喋ることはできても、きっちりとまとめるのは本当に難しい。

彼女の考察を読んでひとつ気になったのは、創作としての性表現と、自らの身体でもってサービスを提供する性産業を一旦分けて考えてみることで、いく分整理が進むのではないかということ(双方に跨っているものもあるけれど)。そう思うのならお前がやれと言われそうだが、いや難しくって。

 

ああダメだまとまらない。この項後で相当いじるかも。(いじってます)

エッセイスト志望?

『アラフィフひとりおためし山暮らし』

池真理子初の連載エッセイのおもしろさは想像を遥かに上回るものだった。

漫画家に文才のある人が多いのは当然としても、これまでに私が読んだ漫画家によるエッセイというと、ややぎこちない文章がある種の可笑しみを醸すという体のものが多かった。

本作もそうしたものにちがいあるまいという私の予想は、連載第一回にして覆された。おもしろさもさることながら、執筆に傾ける筆者の熱量のようなものが、他の漫画家による、おっかなびっくり書かれた凡百のエッセイとはまるでちがう。「熱量」といっても悲壮なものではなく、その文面からは「書きたい」そして「楽しい」というシンプルな念が溢れている。

前置きが長くなったが、この記事はエッセイの内容について語るものではないということを今のうちにお断りしておく。

挿し絵がない

以前ツイッターでも触れたが、このエッセイは連載時、挿し絵がひとつもなかった。漫画家の書く文章の連載となれば、気の利いた1コマ漫画やカットのひとつも添えるような読者サービス(といえば聞こえはいいがエッセイが不評だった時のための保険のような意図もあろう)があるのが常だが、それがない。あくまで文章で勝負したいという筆者の意思だったのでは、と推測するのは考えすぎだろうか。

単行本では

一方、10月に発行された単行本には、「はじめに」「おわりに」の末尾に挿し絵がようやく入ったほか、いくつかの回のタイトル下にも、それぞれ内容に関連のある小さなカットが載っている。いずれも筆者自身によるものだが、それとてあまり自己主張はしていない。

絵描きとして

漫画家には、我がむき出しの絵を描くタイプ(たとえばつげ義春)と、絵にあまり我を出さないタイプ(たとえばあだち充)がいる。それぞれを「解放型」「抑制型」と言ってもいいかもしれない。(無論これは評価の高低とは無関係である。)

池真理子は後者だろう。描きたいものを描きたいように描くといった尖ったスタンスをとることはあまりなく、読み手に「伝える」ことが恐らく常に念頭にある。

落書きをヒョイとツイッターに載せるという多くの漫画家が気まぐれにしていることを殆どしないのも興味深い。

文筆家として

文章から私が受ける印象は、漫画から受けているものとはいくぶん違う。というのは、時として読者の存在を忘れて突っ走ることもあるのではないか――そう感じさせる勢いが彼女の文章にはある。それが「独りよがり」という自省に繋がってもいるのかもしれないが、「書きたい」というストレートな思いの表れでもあるだろう。

彼女にとっては漫画よりも文章の方が、実は自分自身をより自由に出せるのではないだろうかと思う所以である。これまた考えすぎだろうか。